街の住人として、お客さんとして、作家として、あらゆる視点でこの街と接してきた鈴木さんが、歌舞伎町に混在するカルチャーを起点に、街へ思いを巡らせる連載コラム、今回が最終回となります。
第8回のテーマは“恋愛事情”。この街の重要な要素である「恋」や「愛」が、歌舞伎町を形作っているのかもしれません。
文:鈴木涼美
Vol.08 恋人ならざる者の街 ー願い事は中途半端に叶えられ
“昨日にまさる恋しさの/湧きくる如く高まるを/忍びてこらえ何時までか/悩みに生くるものならむ。” 萩原朔太郎の詩の冒頭の一節を恋する者の心境とするならば、歌舞伎町は実に恋する者たちで溢れた街だ。店長に恋する女の子も、ホストに恋する女の子も、スカウトに恋する女の子も、まともなお客に恋する女の子も、今日も今日とて我慢して忍耐して悩んで心をすり減らす。恋する者は嘘を何より怖がるのに、映画館のスクリーンの中も歓楽街の店の中も嘘っぱちなのだから、この街は恋するのに適さない。”死なば死ねかし感情の/かくも苦しき日の暮れを/鉄路の道に迷い来て/破れむまでに嘆くかな/破れむまでに嘆くかな。” 朔太郎が誰をどれだけ狂おしく恋慕していたのか知らなくとも、この街では末尾の一節が具体的に毎日目撃できる。スクリーンの中にも、道端にも、深夜のラーメン屋にすら、破れむまでに嘆く人がいて、時に死にたいなんて言葉すら息を吐くように口にされるのを耳にする。
なんでこんなに苦しいのに、この街に通い来るのだろうと思いつつ、恋とか愛とか言われるものが含む、この街で満たされることのない欠片とは一体何であるのか気になってしまう。恋に落ちると自分の中のそれまであることすら知らなかった欲望がいくつも膨らみ出す。この人に触れたい、この人に触れられたい、この人以外に触れたくない、この人以外に触れられたくない、この人が自分以外に触れるのが許せない、自分以外がこの人に触れるのが許せない。愛されたい、認められたい、選ばれたい、感謝されたい、謝られたい、怒られたい、嫉妬されたい、理解されたい、理解したい、安心したい。大切に思われたい、かけがえのない人と思われたい、私がいなくては生きていけないと思われたい、私じゃなくてはダメだと思われたい。飽きられたくない、捨てられたくない、比べられたくない。
このうちのいくつかは歌舞伎町の歓楽街に身を投じることで叶えられてしまうものだ。それは時に簡単に、時に大変な痛みと努力を伴って。例えば水商売をしながら水商売の異性を愛すると、運が良ければこの人に触れ、この人に触れられることは、特別な環境を用意しなくても叶うだろうが、この人以外に触れたり触れられたりしたくないというのは難しく、自分以外がこの人に触れたりこの人が自分以外に触れたりするのも防ぎきれない。勤める店の店長に恋をすれば、愛され認められ感謝され怒られることがあっても、選ばれて安心するのは難しい。性サービス店に勤めてホストに恋すれば、自分がいなくては生きていけない状態にしてかけがえのない人にはなれるかもしれないが、それは大抵、自分じゃなくてもダメということはない。
いずれにせよ、煌びやかであることが存在意義であるような街では目移りするほど魅力的なものが溢れていて、それはたとえ表面的であってもすぐに人の心を奪うから、比べられて飽きられて捨てられる不安からは自由ではない。排他的な一対一の関係が保持されなければ終始完全に満たされることがないのが恋だとしたら、ここは恋愛というものが、必ず一つか二つ、大切なピースが欠けた状態で提供される。しかしお金なり性的魅力なり労働なりというそれなりの対価を覚悟すれば、最後の1ピースを除いて大抵のものは手に入る。ホステスにとって客は、大切でかけがえがなくて感謝してもしきれない存在であるのはそれはそうなのだ。ただ、同じお金を握ってくるのであれば別に彼自身である必要などなく、他の誰に代わっても差し支えないのだし、彼を安心させるために彼以外の人を排除することはないというだけで。
歌舞伎町では簡単に恋に落ちることができる。ただし恋愛が満足する形で完結はしない。それは恋愛が、閉じられることによって安心と満足を得るという特徴があるからで、もっと言えば、どんなに今風の装いをした人であっても、恋愛相手にはある種の古典的で保守的な良識を求めるものだからだ。歓楽にせよ映画や劇場に立ち現れる文学にせよ、古典的な良識からはみ出したものが居場所を見つけるこの街に、そんな良識は似つかわしくない。あらゆる人に開かれることによって、東京のはみ出し者たちを受け止めてきた街が閉じられることもない。歌舞伎町の恋が辛いのは、そのどんな者でも受け止めて拒絶しない街の性格上、去るか去らないかという終わりの決断を自分でしなくてはいけないからなのだ。どんなに選ばれていなくとも愛されていなくとも飽きられていても、相手がさよならと言ってくれる可能性は低い。
ただし恋愛ならざる恋が溢れる街故に、実に豊かに育ったものもある。新宿区は都内でも随一の数のラブホテルを抱える街である。諸外国のモーテルや連れ込み宿とは一線を画して、独自の文化を築いてきた日本の「ラブホ」は、今やラブホ女子会や一人ラブホなど用途にも多様性が生まれ、日本に慣れた外国人観光客はラブホ滞在を検討するとも言われる。コロナ禍に飲み会やカラオケの場所に困った者たちにも重宝された。
そして歌舞伎町だけでも80店舗以上があるとされるラブホ群は、渋谷や池袋のラブホに比べて全体としてクオリティが高いとされる。一つには部屋の占有面積が大きいホテルが多い。都心のラブホはラブホの醍醐味である大きな湯船、大きなベッドをなんとか確保しようとするが故に、その他のスペースが信じられないほど狭いこともあるが、歌舞伎町ではちょっとしたスイートルーム並みの広い部屋が結構次々に見つかるのだ。そして、いかにもここからがラブホ街、と隔離された都内各地のホテル街と違って、歌舞伎町では飲食店や遊び場がすぐそこに隣接していて、ラブホとラブホの間の道を通るのに身構える必要がない。昼間のフリータイムを狙えば、とてもリーズナブルだし、それら多くが今や、女子会ユーズ、お一人様ユーズ、複数人数ユーズなどに開かれて、みんなで騒ぎたい若者や、ゆっくり仕事をしたいオトナから人気を集めている。
そこにシティホテルやビジネスホテルを加えれば、歌舞伎町は個人単位の小宇宙である個室に溢れている。そこで紡がれる恋物語は苦しくて満たされない消耗するだけのものであっても、人は恋が落ちていれば拾ってしまうものなわけだし、そういった邪で陳腐で愛しい感情があるからこそこの小宇宙が発展したのであれば、それもそう悪くない。
鈴木涼美
作家。慶應義塾大学環境情報学部在学中にAVデビュー。東京大学大学院学際情報学府修士課程修了後、日本経済新聞社へ入社。著書に『「AV女優」の社会学 なぜ彼女たちは饒舌に自らを語るのか』(青土社)、『身体を売ったらサヨウナラ 夜のオネエサンの愛と幸福論』(幻冬舎文庫)、『オンナの値段』(講談社)、『女がそんなことで喜ぶと思うなよ〜愚男愚女愛憎世間今昔絵巻〜』(集英社ノンフィクション)、『可愛くってずるくっていじわるな妹になりたい』(講談社)、『ニッポンのおじさん』(KADOKAWA)、『娼婦の本棚』(中公新書)、最新作に、初小説作品で芥川賞候補作となった『ギフテッド』(文藝春秋)など
text:鈴木涼美
illustration:フクザワ
photo:落合由夏