歌舞伎町のランドマーク・風林会館の歴史とともに歩んだ60年
歌舞伎町で半世紀以上の時を刻んできた「パリジェンヌ」。1967年、風林会館の誕生と同時に直営の洋食レストランとしてオープンした。
ホール担当のKさんは、1990年からここで働いている。
「20歳の頃に、最初は夜勤のアルバイトとして入りました。当時は田舎から出てきたばかりで、歌舞伎町がどういう場所なのか、パリジェンヌがどんなお店なのかも分かっていませんでした。とにかく忙しくて、余計なことを考える暇もなかったですね」(Kさん、以下同)
当時はビルの1階部分が全てパリジェンヌのフロアで、300もの客席が常に埋まっていたという。
「ランチタイムだけでなく、出勤前に同伴の待ち合わせをするホステスさん、お店終わりに食事にこられる水商売の方々など、どの時間帯もお客様がひっきりなしでした。当時は周囲に飲食店自体が少なかったですし、食事や待ち合わせといったらうちの店でしたね」
当時は早朝営業もしていたこともあり暇な時間がほとんどないという忙しさだったが、当時は同年代の従業員も多く、サークルのような雰囲気があったという。そのまま社員になり、以来20年以上にわたって働き続けてきた。
事件が起きたことも…。毎日「いろいろなことがあった」あの頃の歌舞伎町
20年の間には、いろいろなことがあった。いわゆる「パリジェンヌ事件」が起きた日も、Kさんはホールで働いていた。ただ、そのことについては多くを語らない。
「私からあえて言及することはありませんが、『歌舞伎町 パリジェンヌ』と検索すれば、全ての情報が出てくる時代です。うちがどんな店なのか、どういうことがあったのか、当時のことを知らない若い人でも調べられてしまう。ただ、そのなかで洋食レストランとしてのパリジェンヌに興味を持って、足を運んでくださるお客様もいる。そんなお客様に対して、精一杯のサービスを提供したいと思っています」
事件後も、店を去ることは全く考えなかったという。当時の歌舞伎町ではパリジェンヌに限らず、他の飲食店でも大なり小なり「いろんなこと」が起きていたそう。「そこは、“たまたまうちだった”と思っていただければありがたいですね」とKさん。
「そもそも事件以前から、店内で乱闘騒ぎが起きることなどはザラでしたから。お客様からは『ちゃんと防弾チョッキを着て仕事しなさいよ』と冗談を言われたりもして(笑)。当時はそんなコミュニケーションも楽しかったんですよ」
コロナ禍で歌舞伎町の活気が失われてもお店を守り続けた
さらに時を経て、店を取り巻く環境も大きく変わった。特に、コロナ禍によって失われた歌舞伎町の活気は現在も完全に戻ったとはいえず、パリジェンヌも営業時間の短縮など、開業以来の大きな決断を下さざるを得なかったという。
「コロナの影響で閉じた飲食店もたくさんありました。うちは自社ビルで家賃がかからないということもありましたが、なんとか持ちこたえられたのは常連のお客様の存在、それからオーナーの意向も大きかった。風林会館唯一の直営店であるパリジェンヌを閉じれば、うちはテナントの貸しビルになってしまう。やはり、ここだけは守らなければいけないという、強いこだわりがあるのだと思います」
手間暇かけて仕込み、自信を持って提供するパリジェンヌこだわりの料理
そんなパリジェンヌで開業以来変わらずこだわり続けているのは、料理のクオリティだ。司厨長謹製のドミグラスソース(デミグラスソース)をはじめ、手間暇をかけた逸品を求める根強いファンも多い。
「ドミグラスソースは3日から4日かけて仕込んでいます。料理長が『血の一滴に等しい』と表現するくらい、大事にしているソースですね。ドミグラスソースを使ったメニューのなかで、特にお客様からご評価いただいているのはビーフシチュー。帰り際に『こんなにおいしいものは食べたことがない』というお言葉を頂戴したこともあります。それだけにこだわりも強く、仕込みから時間が経過して味が落ちたら提供をストップしています」
ドミグラスソースだけでなく、しょうが焼きのタレや揚げ物用のソースなども全てが自家製。ひと口食べただけで、丁寧に仕込んだことが伝わってくる。洋食レストランとしてのプライドが垣間見える、奥深い味だ。
「若い頃は調理場を見る余裕もなく働いていましたが、経験を重ね知識もついてくると、うちの料理のすごさが理解できるようになりました。そこから次第に、うちは喫茶店ではなくレストランなんだという意識が芽生えていきましたね。我々ホールの人間も、パリジェンヌの料理は必ずお客様に喜んでいただけるという自信を持って運んでいます」
歌舞伎町が盛り上がってこそのパリジェンヌ
現在の歌舞伎町には、風林会館よりも大きな商業施設がいくつもある。それでも、もうすぐ築60年になるレトロなビルを「歌舞伎町のランドマーク」と認識している人は少なくないだろう。もちろんKさんもそのひとり。そして、そんな風林会館と同じ歴史を歩んできたパリジェンヌに対しても、強い誇りと愛情を抱いている。
「私のなかでは、今でも風林会館が歌舞伎町の中心です。そして、風林会館といえばパリジェンヌであると思っています。最近、歌舞伎町で働いているのにパリジェンヌを知らないという若い人も増えているようですが、私から言わせれば“もぐり”だなと(笑)」
とはいえ現在のパリジェンヌには、絶え間なく客が訪れた20〜30年前ほどの賑わいは見られない。再び活気を取り戻し、これからもその歴史を紡いでいくためには、歌舞伎町全体の繁栄が欠かせないとKさんは考えている。
「我々のようなお店は、やはり街全体が盛り上がってこそ成り立つんですよ。周囲のクラブ、キャバクラ、ホストクラブ、飲食店、さらには区役所や企業も含めて、ここで働くみなさんの景気がよくなれば、おのずとパリジェンヌも活気づいてくるでしょう。まだまだ時間はかかると思います。でも、いつかまた元気な歌舞伎町が戻ってくると信じて営業を続けていきたいですね」
文:榎並紀行
写真:小島マサヒロ
▼関連記事
歌舞伎町はなぜできた?高級住宅街から東洋一の歓楽街に発展した歴史の秘密を辿る
歌舞伎町に小学校があったのはなぜ?廃校が吉本興業・東京本部に成るまで
歌舞伎町の新旧が交差する。ディープな路地裏「思い出の抜け道」探訪