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歌舞伎町はなぜできた?高級住宅街から東洋一の歓楽街に発展した歴史の秘密を辿る

歌舞伎町

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カルチャー 散歩 歴史
DATE : 2024.09.13
歌舞伎町といえば、今ではディープな歓楽街のイメージ。しかし時代を遡ると、昭和初期は閑静な高級住宅街。さらに、明治時代のこの場所は森に囲まれた湿地帯であったり、江戸時代は幕府を守護する鉄砲隊の屋敷が並んでいたりと、意外な過去がある。

そうした歌舞伎町の変遷を知り尽くすのが、『すごい!新宿・歌舞伎町の歴史』の著者で、長く新宿区役所に勤めてきた橋口敏男さん。今回は橋口さんとともに歌舞伎町を歩きながら、現在の姿からは想像もできないような驚きの歴史やエピソードを教えてもらった。

橋口敏男さん

元新宿歴史博物館館長。1955年長崎県生まれ。77年法政大学卒業後、新宿区役所に入所。まちづくり計画担当副参事、区政情報課長、区長室長など歴任。歌舞伎町タウン・マネージメント事務局長、新宿歴史博物館館長を務めた。著書に『新宿の迷宮を歩く 300年の歴史探検』(平凡社新書刊)、『すごい!新宿・歌舞伎町の歴史 進化し続けるカルチャータウン』(PHP研究所刊)がある。

【江戸時代】町名の由来にも。歌舞伎町は徳川幕府を守る「鉄砲隊」の拠点だった

1852年(嘉永5年)の現在の歌舞伎町2丁目付近の地図。『地図で見る新宿区の移り変わり 淀橋・大久保編』より転載

江戸時代、現在の新宿エリアは甲州街道の宿場町「内藤新宿」として賑わっていた。そのなかで、現在の歌舞伎町1丁目には江戸幕府の旗本の屋敷があり、2丁目には江戸の西域を警備する鉄砲組百人隊の屋敷が集まっていたという。このことから、江戸期の歌舞伎町エリアは、幕府を守護する重要な場所として位置付けられていたことが分かる。

「甲州街道は、東海道から敵襲があった際、幕府が甲府方面に逃げるための道でした。そこで甲州街道を守護するために、鉄砲隊が置かれたわけです。ちなみに、現在の新大久保周辺に残る「百人町」という地名は、鉄砲組百人隊の屋敷があったことに由来しています。彼らの屋敷は南北にわたって縦長に建てられていて、そこを通り抜けるための一本道が今も残されているんです」(橋口さん、以下同)

歌舞伎町の北西から南東に抜ける長い道。江戸時代から歌舞伎町に残る道だという。

百人町もそうだが、町の名前から数百年以上前の歌舞伎町の姿を読み解くことができるのは面白い。たとえば、現在の歌舞伎町1丁目あたりにはかつて「十人町」という町名が、新宿3丁目あたりには「五十人町」という町名も存在した。これはつまり、今では東京屈指の繁華街として賑わう歌舞伎町1丁目にはかつて、10軒ほどの屋敷しかなかったことを意味している。

歌舞伎町の道路の傾斜は、川が流れていた痕跡

現在の東急歌舞伎町タワーと大久保病院の間の花道通りには「蟹川」が流れていた。『地図で見る新宿区の移り変わり 淀橋・大久保編』より転載

靖国通りから歌舞伎町1丁目方面にかけての道には、ほんの少しだけ傾斜がついている。橋口さんはこの傾斜を、かつて川が流れていた名残だという。

「現在の歌舞伎町1丁目の北部にかつて『新田裏』という地名があったのですが、これは当時、一帯に流れていた川のそばに新田をつくったことに由来しています。ちなみに、歌舞伎町の中心には『蟹川』という川が流れており、水にちなんだ地名も多かったんです。『蟹川』が流れる靖国通りから歌舞伎町1丁目方面にかけての道は、当時の名残で、じつは緩やかな傾斜があります。普段歩くぶんには気づかないでしょうが、歌舞伎町方面に向かう人たちの足取りは、少しだけ速くなっているはずです(笑)」

今では全く想像できないが、蟹川は現在の歌舞伎町1丁目と2丁目の間、花道通りに存在していた。現在は暗渠化されているが、じつは下水道の幹線として都民の生活を支えているという。

「東京の下水道は意外と、昔の川を利用しているものが多いです。かつての蟹川も、大部分が今でも『第二戸山幹線』として、新宿区戸山地区の早稲田大学あたりまで続いています」

川が流れていた名残である、靖国通りから歌舞伎町1丁目方面にかけての道。よく見ると緩やかに傾斜になっていることが分かる。

【明治〜大正】森や池のある閑静な住宅街が広がっていた

現在の歌舞伎町公園、新宿東宝ビル周辺に「大村の森」があった。囲いのなかにあるのが鴨池。1910年(明治43年)『地図で見る新宿区の移り変わり 淀橋・大久保編』より転載

明治時代に入ると、歌舞伎町はあたり一面が森に囲まれた湿地帯に。そこに肥前国(長崎)大村藩の子孫の別荘があったことから「大村の森」と呼ばれていた。大村の森には鴨猟をするための鴨池があり、そこには「弁天様」が祀られていたといわれている。じつは、そうした土地の歴史を物語る場所が、現在も街の一角に残されている。

「歌舞伎町公園に隣接する『歌舞伎町弁財天』です。鴨池を埋め立てる際に、この場所に弁天様を勧請したという説があり、それから現在まで歌舞伎町の守護神として親しまれてきました」

新宿東宝ビルの近く、繁華街の一角に突如として現れるお堂。こちらに弁財天が祀られている。なお、現在の本尊は1913年(大正2年)のお堂の改築にあたって上野寛永寺の不忍弁財天から勧請したもの。

市街地としての歌舞伎町の礎を築いた女性実業家の存在

先述した歌舞伎町公園の敷地内には、「尾張屋銀行」と刻まれた碑が立てられている。この「尾張屋」の当主だった峯島喜代は、明治から大正期の歌舞伎町の成り立ちを語るうえで欠かせない人物だ。

歌舞伎町公園の入口にある「尾張屋銀行」の碑

「尾張屋は、約260年前に創業した質屋で、峯島喜代さんは五代目当主でした。喜代さんは明治を代表する女性実業家のひとりで、1900年(明治33年)に「尾張屋銀行」を設立し、1911年(明治44年)には大村家から歌舞伎町の土地を購入しました。その土地を住宅地として開発し分譲を進めたことで、歌舞伎町は自然環境に恵まれた閑静な住宅街として人気を博していくわけです。

また、喜代さんはそれだけでなく、女子教育を強化したいという思いから東京府に多額の寄付を行い、女学校の設立を働きかけました。そして、1920年(大正9年)に尾張屋が所有していた歌舞伎町の土地を無償で貸与し、東京府立第五高等女学校(現・東京都立富士高等学校附属中学校)が建てられたんです。学校の設立によって、街にはさらなる活気が生まれました。峯島喜代さんはまさに、歌舞伎町の礎を築いた人物といえます」

すぐそばには「東京府立第五高等女學校発祥の地」の記念碑も。なお、同校は1945年(昭和20年)の大空襲で校舎が消失し、中野区に移転している。

伝染病の流行がきっかけ。歌舞伎町は東京の水道の始まりの場所だった

明治時代の歌舞伎町にはこんな歴史もある。

「1879年(明治12年)に伝染病のコレラが流行した際、歌舞伎町に患者を隔離するための『避病院』が建てられました。この避病院が現在の東京都立大久保病院の前身で、新宿で最初にできた近代的施設といわれています。ちなみに、コレラ蔓延の原因は下水と上水が混じり合った汚水でした。やはり清潔な水が必要ということで、新宿西口の都庁の辺りに東京初の浄水場『淀橋浄水場』がつくられたんです。つまり、東京の水道は新宿から始まっているんですよ」

かつて「避病院」が置かれていた歌舞伎町2丁目。現在は大久保病院と、高層ビルの「東京都健康プラザハイジア」が建つ。

【昭和】総理大臣も住む憧れの高級住宅街

1933年(昭和8年)『地図で見る新宿区の移り変わり 淀橋・大久保編』より転載

明治・大正期にかけての尾張屋による宅地化で、昭和初期には閑静な高級住宅街として知られるようになった歌舞伎町。現在の歌舞伎町2丁目には第35代内閣総理大臣・平沼騏一郎の邸宅をはじめ、3人の総理大臣経験者も居を構えていた。当時は、今でいう渋谷区松濤のような、憧れのエリアだったようだ。

提供:新宿歴史博物館

その後も交通環境の整備が進んだことで新宿駅周辺に伊勢丹や紀伊国屋書店などの商業施設が誕生するなど、新宿や歌舞伎町エリアは順調に発展を遂げていく。

新宿区役所と新宿ゴールデン街の間にある、2つに分かれたこの遊歩道にはかつて都電が走っていた。

「歌舞伎町」のキーマン。鈴木喜兵衛による街づくりが始まる

しかし1945年(昭和20年)、空襲によって一帯は焼け野原となってしまう。

「戦災によって、新宿は歌舞伎町を含めて全てが失われてしまいました。そんななか、戦後復興のキーマンになったのが、当時の町会長だった鈴木喜兵衛さんです。彼は終戦からわずか5日後に復興計画を立案します。それは『道義的繁華街』、つまり、歌舞伎町を人々が集まり、楽しんでもらうための街として生まれ変わらせることでした。

鈴木喜兵衛さんは、敗戦国である日本が国家として生き延びるには、アメリカをはじめとする戦勝国に恨まれないようにしなくてはいけない。そのためには、海外から人を呼び込み、日本の良さを感じてもらう必要があると考えました。そこで打ち立てた戦略が、日本を観光立国にするというもの。新宿に歌舞伎の劇場をつくるなどエンターテインメントの街として発展させることで、今でいうインバウンドのムーブメントを起こそうとしたんです」

提供:新宿歴史博物館

歌舞伎町の名前の由来は?人を街に引き込むT字路設計

じつは、この歌舞伎の劇場をつくる計画こそが「歌舞伎町」という名前の由来。残念ながら戦後の物資が不足している状況下において、劇場は「不要不急」とみなされ計画は頓挫してしまうが、鈴木喜兵衛ら民間の力によって歌舞伎町は少しずつ賑わいを取り戻していく。1950年代には映画館やスケートリンクなどが誕生し、「若者が集まる街」として認知されるように。エンタメの街として息を吹き返し、やがて東洋一の歓楽街へと発展を遂げていった。

「鈴木喜兵衛さんは歌舞伎町に人を呼び込むために、ある仕掛けを施しました。それは街路に多くの『T字路』をつくること。あえて景観の抜けをつくらず視界を遮ることで、迷宮のような空間を生み出す。すると見えない部分に何があるのか気になって、奥へ奥へと進みたくなる。そんな人間の心理を利用した街のつくりも、歌舞伎町の大きな特徴のひとつです」

先人たちが目指した、誰もが楽しめる歌舞伎町へ

そして、2023年に東急歌舞伎町タワーが立ち、世界中から多くの人が集う多文化の街として現在も目覚ましく進化を続けている。

見慣れた街並みでも、その成り立ち、過去の出来事といった歴史を知った上で眺めてみると、新鮮な驚きや発見がある。同時に、それまでは平凡に思えた景色やスポットも魅力的に感じられ、街に対する愛着が湧いてくるはずだ。今回紹介した歴史をふまえ、ぜひ歌舞伎町を探索してみてほしい。

最後に、約半世紀にわたり新宿の変遷を見つめ続けてきた橋口さんに、改めて歌舞伎町の魅力、そして今後に期待することを聞いた。

「歌舞伎町の魅力は、いつでも何か面白いことがある、毎日がお祭りのようなワクワク感ではないでしょうか。また、来る人を拒まない、誰でも受け入れてくれる懐の深さ。そうやって集まってきた人たちの手で、また新しいものが生まれる。そんな飽きのこない街だと思います。

これからの歌舞伎町に期待するのは、やはり危ない街ではなく、賑やかで誰もが訪れたくなるような街になってほしい。それこそ、鈴木喜兵衛さんたちが目指したような楽しい街として、多くの人に愛され続けてほしいですね」

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文:榎並紀行
写真:小島マサヒロ

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