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歌舞伎町に小学校があったのはなぜ?廃校が吉本興業・東京本部に成るまで

歌舞伎町

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カルチャー 散歩 歴史
DATE : 2024.09.27
酉の市で知られる花園神社と新宿ゴールデン街。そんなユニークなスポットに挟まれ、街のなかで異質な存在感を放つのが、旧四谷第五小学校だ。同校は、現在、吉本興業東京本部のオフィスとして利用されていることでも知られている。
なぜこの場所に小学校が建てられ、企業のオフィスとなったのか。歌舞伎町の変遷を知り尽くす元新宿歴史博物館館長の橋口敏男さんに、知られざる小学校の歴史を教えてもらった。

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橋口敏男さん

元新宿歴史博物館館長。1955年長崎県生まれ。77年法政大学卒業後、新宿区役所に入所。まちづくり計画担当副参事、区政情報課長、区長室長など歴任。歌舞伎町タウン・マネージメント事務局長、新宿歴史博物館館長を務めた。著書に『新宿の迷宮を歩く 300年の歴史探検』(平凡社新書刊)、『すごい!新宿・歌舞伎町の歴史 進化し続けるカルチャータウン』(PHP研究所刊)がある。

明治から昭和の歌舞伎町は、さまざまな学校が点在したエリアだった

地図からも歌舞伎町エリアに学校が複数あったことがわかる。

吉本興業が旧四谷第五小学校を東京本部オフィスとして使用していることを知っていても、「なぜ歌舞伎町に小学校が?」と疑問に思う人は少なくないだろう。同校は、小田急線や西武鉄道の駅が開設され、紀伊國屋書店や伊勢丹新宿店が開業するなど、新宿が人で賑わう街へと転身しつつある1934年(昭和9年)に建てられた。

「当時の歌舞伎町1丁目には府立第五女子高等学校、近くの戸山地区には陸軍戸山学校等の軍関係の施設がありました。商業地として栄えつつある新宿でしたが、明治から大正にかけては閑静な住宅街であったこともあり、そこに住む役人や軍人、華族の子弟などがこうした学校に通っていたといわれています。このようなことからも、今の歌舞伎町とは違う街の営みが行われていたエリアだったことが想像できます」

戦後に撮影した写真。中央に見える四谷第五小学校の周りが住宅街であることがわかる。提供:新宿歴史博物館

建築家・ブルーノ・タウトも評価。当時の流行・モダニズム建築を取り入れた設計

写真のようにフラットなコンクリートの壁面と大きな窓が特徴。提供:吉本興業

現在、この小学校が歌舞伎町のなかで異質さを放っている理由は、単に繁華街に小学校があるからというだけではなく、周辺の建物とは違う個性的なデザインの建築物だからということが大きい。通りから外観を眺めるだけでも、フラットなコンクリートの壁面に曲面壁を組み合わせた小学校らしからぬデザインに圧倒される。

大きな窓で開放感があふれる階段室からの眺め。格子角のガラスに覆われた円筒状の空間は、開放感にあふれている。提供:土木学会附属土木図書館

「旧四谷第五小学校は、鉄やガラス、コンクリートなどを用いて、合理的精神で設計されたモダニズム建築です。モダニズム建築は当時の最先端デザインのひとつで、国際様式とも呼ばれていました。装飾がないのが特徴で、柱と床で全体を支えるすっきりとした造りです。

旧四谷第五小学校も建築当時の写真を見ると、壁の白と大きな窓が目立ちますね。開口部が多く、開放感にあふれ、随所にカーブを使ったデザインを取り入れているのも特徴といえます」

“歌舞伎町の小学校”は関東大震災の「復興小学校」として建てられた

建築当初の旧四谷第五小学校。提供:土木学会附属土木図書館

そんな旧四谷第五小学校を設計したのは、大正から昭和にかけて活躍した建築家の古茂田甲午郎だ。古茂田は東京帝国大学建築学科卒業後、文部省で営繕技師として勤務。1924年(大正13年)の関東大震災後、恩師に請われて、東京市臨時建築局に転職し、東京市の学校建設の責任者を務めた。なかでも関東大震災後で消失した小学校117校を立て直す「復興小学校(※1)」実務に関わったことで名を馳せた。

「数ある復興小学校のなかでも傑作と言われているのが、旧四谷第五小学校といわれています。実際、旧四谷第五小学校は建築物としての評価も高く、20世紀を代表するドイツの建築家ブルーノ・タウトは『明快堅牢であるばかりではなく、風土に対する適切な考慮がある』(『日本 タウトの日記 1934年』より)と著書で述べています」

※1:関東大震災で被災し、復興事業の一環として再建された小学校。それまでは木造が主流だったのに対し、鉄筋コンクリート造(RC造)になった。

四谷第五小学校が吉本興業・東京本部に成るまで

提供:吉本興業

旧四谷第五小学校に吉本興業が東京本部を移したのは、2008年のこと。当時の石原慎太郎都知事が繁華街から違法風俗店を摘発する浄化作戦を展開していた2003年、新宿区も同時に健全な街へと歌舞伎町を変える「歌舞伎町ルネッサンス」に取り組んでいた。吉本興業の移転は、その一環として行われた地域内の空き地・空きビルに優良企業を誘致する「家守事業」のひとつだったという。

「旧四谷第五小学校をどのように使うかは、当初、区役所を移すという案をはじめ、さまざまな案がありました。最終的に当時の中山弘子新宿区長が吉本興業の大﨑洋前会長に移転の提案を持ちかけ、改修後に移転をすることになりました。これまでのような歓楽街ではなく、健全なエンターテインメントの街を目指す上ではぴったりの企業移転であったと思いますね」

提供:吉本興業

改修の末、吉本興業東京本部に姿を変えた旧四谷第五小学校だが、小学校として使用されていた当時の面影を大きく残しているところが面白い。現在は、食堂やコンビニエンスストアなどのオフィスとして便利な施設を加えながらも、当時の木製の床や黒板などをそのままに会議室や執務スペースとして活用している。

クリスマスシーズンには中庭にクリスマスツリー。季節折々の野菜などを育てるガーデンスペースも。提供:吉本興業
当時のままの床面がノスタルジックな雰囲気。提供:吉本興業
会議室では当時の黒板をそのまま使用している。提供:吉本興業

企業のオフィス移転で過去と未来が共存する街に

元気な企業がオフィスを移転することで、歴史ある名建築を街並みに残した歌舞伎町。歓楽街の傍に建つ戦前の小学校から発信される新たなエンターテインメントに期待したい。

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文:岩垣良子

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