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歌舞伎町のど真ん中で「鬼」を祀る。稲荷鬼王神社の七不思議

歌舞伎町

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DATE : 2024.08.08
歌舞伎町の繁華街を抜け、区役所通りを少し歩いた先に鎮座する「稲荷鬼王神社」。全国でも珍しい「鬼王」の名を冠する神社は、300年以上にわたって一帯を守護してきた。一見、厳かな雰囲気の神社だが、よくよく目をこらすとさまざまな「不思議」に溢れていることに気づく。背中に刀傷を持つ鬼の像、山の途中で2つに分かれた富士塚、豆腐を断って病気平癒を願うという独特の風習……。そもそも、稲荷と鬼を同時に祀るという発想からして異端といえるかもしれない。稲荷鬼王神社を代々守り続ける大久保家の16代目・大久保直倫宮司に、稲荷鬼王神社の「七不思議」と題してその神秘な歴史について伺った。

大久保直倫さん

稲荷鬼王神社16代目宮司。「神様が一番」がモットー。本殿内での写真撮影がOKだったり参拝者がくつろげるパイプ椅子を置いていたりという様子に、「参拝者の幸せが神様の喜びにもつながる」という姿勢が表れている。境内では、往年の映画ポスターや各家庭の雑煮の展示会など、ユニークな催しも行っている。趣味は銭湯と歌舞伎町のおいしいもの巡り。

不思議その1:歌舞伎町に鎮座する理由

― 新宿歌舞伎町という場所に、こうした厳かな神社が存在することに驚かれる人も多いと思います。「稲荷鬼王神社」は、いつからこの場所にあるのでしょうか?

この地域は元々「大久保村」という村で、なかでも現在の稲荷鬼王神社がある「西大久保」は村の人たちにとって神聖な場所とされていました。そこに1653年(承応2年)、戸塚諏訪神社から福瑳稲荷が迎えられ、村社として稲荷神社が建てられた。そして、1831年(天保2年)に「鬼王権現」という神様も一緒に祀られ、現在の「稲荷鬼王神社」になりました。

つまり、「歌舞伎町」という地名ができる300年以上前から「稲荷鬼王神社」はこの地を守護してきたと。

そのとおりです。ちなみに、元の「西大久保1丁目」から現在の「歌舞伎町2丁目」に地名が変更されたのは、1978年のことです。歌舞伎町という地名が誕生したのは終戦から3年目の1948年ですが、その歌舞伎町に元々あった西大久保という地名が吸収される形になるわけで、当時は住民から反対の声も挙がったと聞きます。当時は “大久保”という地名に対しての思いが強かったんですね。結果的には歌舞伎町になって、地域の人も複雑な思いはあったかもしれません。それでも、決まったからには歌舞伎町という名前を否定せず大事にしようと気持ちを改めたようです。

不思議その2:「鬼王」を祀る理由

そもそも、なぜ「鬼王」、つまり鬼を祀ることになったのですか?

元々は江戸時代に大久保村の百姓・田中清右衛門が西国へ巡礼の旅に出た際、道中で鬼王権現をお参りしたことがきっかけと伝わっています。清右衛門は旅の途中で病気にかかり、夢に現れた老人に「鬼王大権現に豆腐を捧げて祈れば、病は癒える」と告げられます。いわれたとおり、紀州熊野の地で鬼王権現に祈ると病気が治ったと。そのことに感謝した清右衛門が大久保村に鬼王権現を招き、元々あった稲荷神社に合祀する形で「稲荷鬼王神社」になったということなんですね。

その田中清右衛門さんがお参りしたという鬼王権現は、現在も熊野の地に残されているのでしょうか?

それが不思議なことに、熊野だけでなく全国のどこにも現存していません。考えられるのは、鬼王権現が当時の「流行りの神様」だったのではないかということです。江戸時代には流行りの神様が出てきては、急に廃れていくということがよくあったといわれています。当時の鬼王権現もその地域では廃れてしまったけれども、それをもらってきた私たちのほうが残ったということではないかと。コロナ禍で話題になった「アマビエ」も当時起きたのと同じような流行といえるかもしれませんね。

不思議その3:「鬼」が受け入れられた理由

元々聖地として稲荷を祀っていた神社に「鬼」を合祀することへの抵抗はなかったのでしょうか?

おっしゃるとおり、これも不思議ですよね。古代や中世における「鬼」は強さの象徴として、むしろ讃えられる存在でした。しかし、江戸時代にはすでに民衆の間では忌むべき存在として認識されていたはずです。特に、大久保“村“という閉鎖的なコミュニティにあって、「鬼」という名前をいただくことに対して強い抵抗があってもおかしくありません。それでも普通に受け入れられた理由は、ハッキリとはわかっていないんです。

社殿にはさまざまな鬼の像が安置されている

平将門の幼名である「鬼王丸」に由来しているのではないか、という説もあるようですが……。

その説は承知していますが、神社の記録には残されていません。確かに、江戸時代に平将門は英雄とされていて、その名を祀るとなればみんなが賛成したことでしょう。ただ、明治時代に入ると朝廷に刃向かった逆賊と評する風潮が広がり、なんとなく讃えにくい雰囲気になってしまった。稲荷鬼王神社の由来に平将門のことが記されていないのも、もしかしたらそのことが影響しているのかもしれません。いずれにせよ、記録や伝承として残っていない以上、神社の公式見解として述べることはできませんが、みなさんがいろいろと楽しく想像して「鬼王」の名前の由来に意味を与えていくことは、我々として否定するものではありません。

不思議その4:水鉢を持つ鬼の背中に残された「刀傷」

境内にはさまざまな彫刻や灯篭、珍しい形の狛犬などが配されていますが、特に目を引くのが鳥居の左下にある「水盥台石」です。水が入った大きなたらいを、しかめっ面で支える鬼の顔が印象的ですね。この鬼の水盥台石には、どんな伝承があるのでしょうか?

こちらは文政年間(1818年〜1892年)に制作されたもので、とある武士の家から稲荷鬼王神社に寄進されたと伝わっています。寄進された経緯については、怪談話のような伝説が残されているんです。鬼の背中を見てください、大きな刀傷がありますよね。

確かに、刀でえぐり取られたような跡がありますね。

伝承によれば、夜中に庭で誰かが水浴びをしているような音が聞こえ、家の主人が家宝の刀で切りつけたところ、そこにこの盥石があったと。鬼の背中の傷は、そのときについたものです。その日から家族が頻繁に病気をするなどの祟りがあり、困り果てた家主がその刀とともに神社へ奉納されたといわれています。奉納されてからは私の先祖が毎日、鬼の背中に水をそそいで介抱してやったそうです。すると、お参りする人たちも同じように水をかけるようになり、子どもの病気が平癒した、夜泣きがおさまるといったご利益があったということなんですね。

つまり、「祟り神」から「福の神」になったと。

そうですね。現在はお参りの方が水をまくことはできませんが、私たちが毎朝、盥に井戸の水をそそぎ鬼の背中にかけています。井戸の水を御神水として使っているのは、東京でも珍しいのではないかと思います。

不思議その5:2つに分かれた「富士山」の謎

境内には「稲荷鬼王神社」のほかに、恵比寿様を祀る「三島神社」と、富士山の守護神である木花開夜昆賣命を祀る「浅間神社」もあります。特に、浅間神社の立派な富士塚は目を引きますね。

浅間神社ですが、元々はこの境内に祀られていた別の神社でした。1894年(明治27年)に稲荷鬼王神社に合祀され、1930年(昭和5年)に西大久保の「厄除け富士」として再建されています。その際、霊峰富士山の石をはじめとする銘石を全国から取り寄せ、境内に「富士山」をつくったわけですが、現在は参道を挟んで「一合目から四合目」と「五合目から頂上」までの2つに分かれています。戦中の空襲によって地盤が緩み、高い山は危険だということでこのような形になったんですね。

一合目から四合目
五合目から頂上

御朱印も「稲荷鬼王神社」「三島神社」「浅間神社」の3種類がありますが、浅間神社のものには「西大久保 厄よけ藤」の印があります。なぜ「富士」ではなく「藤」なのでしょうか?

当社の富士山に記されている社号は「富士」ではなく「藤」の字があてられています。藤の花には災難から「無事」に身を守るという意味があります。なお、御朱印には「晴天」という字も書かれていますが、これには「心晴れ晴れと、天晴れな(立派な)仕事ができますように」という意味が込められています。戦前、このあたりには庭師や植木師が多くいらっしゃったのですが、そうした職人さんたちは木に登ったり、山に登ったり、大きな仕事のために遠方まで出向くことも多かったそうです。そこで、仕事や道中の安全を祈願し、お守りとして御朱印を身につけていたと。そして、無事に仕事が終わった後にお返しにくるということでした。

厄除け「藤」と西大久保の地名が刻印されている

不思議その6:「豆腐」を断つことで願掛け?江戸時代から続く独自の風習

稲荷鬼王神社には独自の風習である「豆腐断ち」があると聞いたのですが、どんな風習なのでしょうか?

前述した田中清右衛門が鬼王大権現に豆腐を捧げて祈り、病が癒えたことに由来しています。当時の人にとって豆腐は貴重な栄養源。それをあえて断ち、神様に身を委ねることで病気平癒を願うというもので、豆腐はもちろん、油揚げやがんもどきも病気が治るまでは口にしてはならないという厳しいものでした。また、豆腐断ちと並行して、神社から授与されたお守りで患部をなでる「撫で守り」も行います。

今でも「豆腐断ち」や「撫で守り」を実践されている方はいますか?

いらっしゃいます。ご希望の方には事前に連絡をいただき、一丁の豆腐をご持参いただきます。それを奉納したあとに、撫で守りを授与いたします。その後、ご本人もしくは代理の方が豆腐断ちをして、病気が治ったらお礼参りに来ていただくという決まり事になっています。

不思議その7:神社の在り方を覆す!?大久保宮司が寛大な理由

最後に、取材時に感じたことで、大久保宮司の神社への柔軟な姿勢が印象的でした。例えば、神社や寺院によっては、境内あるいは社殿の内部や御廟の撮影はNGなど、ルールが設けられていることも多いと思います。しかし、稲荷鬼王神社は基本的にどこでも写真を撮っていいと。御祓いを受ける際に、神様との「記念撮影」も許可されているということですが、なぜそこまで寛容なのでしょうか?

戦時中に遡るのですが、戦地に向かう前に「神社で写真を撮りたい」とおっしゃる方がいて、当時の宮司であった私の祖父はそれを許可しました。当時、写真を撮るというのは特別なことでしたし、神様と一緒に写れることを大変喜ばれたといいます。当時のカメラは光源が貧弱でうまく写らないこともありましたが、戦地に向かう家族の無事を祈る貴重なものとなったようです。そうした歴史を踏まえ、写真撮影に関しては制限を設けていません。

他にも驚いたのが、境内で喫煙する人がいることです。まるで神社が歌舞伎町の憩いの場のようになっていますね。

実は、先代の父が愛煙家だったので、親孝行の意味も込めて境内に喫煙スペースを設けたんです。路上喫煙して吸い殻をポイ捨てされるくらいなら、ここで吸ってもらった方がいいと考えています。

歌舞伎町のど真ん中で、神様と遊ぶ

今回取り上げたのは、稲荷鬼王神社に数多ある「不思議」のほんの一部。他にも、かたつむりのような身体にキャタピラの脚を持ち、眼球をむさぼり食う「眼球食鬼」の石像、昭和の映画ポスターなどが常設展示される「鎮守の杜まちかど博物館」、異なる音を奏でる2基の水琴窟など、興味深いものばかりだ。それらの由来や意味を大久保宮司に尋ねてみれば、さまざまな逸話や伝承、笑い話が聞けることだろう。

布で拭くことで目の病を治すご利益があるとされる「眼球食鬼」

大久保宮司は「さまざまな文化や人を受け入れてきたのが歌舞伎町。そんな歌舞伎町にある神社として、いろんな人に足を運んでいただきたい。神様は参拝者を大歓迎しています。ぜひ神様と一緒に遊んで、幸せな気持ちになってほしいですね」と語る。その言葉通り、現在でも1日1000人ほどが足を運び、最近は外国人の姿も増えたという。

9月には鬼の面が彫られたお神輿が出る例大祭が、10月には金運のご利益がある「べったら漬け」を販売する「えびすべったら祭り」も行われる。こうした機会に足を運んでみるのもいいかもしれない。

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文:榎並紀行
写真:小島マサヒロ

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