街の住人として、お客さんとして、作家として、あらゆる視点でこの街と接してきた鈴木さんが、歌舞伎町に混在するカルチャーを起点に、街へ思いを巡らせる連載コラムです。
第1回は、現在の歌舞伎町の構造が、ファストフード店での会話から紐解かれていきます。
Vol.01 始まりの町 ーブンガクとカンラクの出会い
20年近く前、横浜に住んでいたハタチの私は、5歳上のオネエサンにくっついて、都内の遊び場に繰り出す日々を送っていた。かつて同じキャバクラにいたこともあるそのオネエサンは、歌舞伎町の店に移って、副業でホスト雑誌や風俗情報誌のライターをしていた。というより、ライターになって副業でキャバクラ勤めも続けていた。まぁどっちでも良い。正確な肩書きが曖昧な人なんて、新宿の街には昔からたくさんいる。
その夜は歌舞伎町に当時あったファストフード店で夜9時頃待ち合わせて、夜がもう少し更けるまで、コーラのSだけで延々と喋りながら、化粧を直したり、手帳に落書きしたり、何をするでもなく過ごしていた。2003年頃の街は、先日亡くなった石原慎太郎元都知事が主導した歌舞伎町浄化作戦の真っ只中で、実際にこの時期の取り締まりで閉店に追い込まれたり、営業形態の見直しを迫られたりした風俗店は多い。それでもテレビではホストを主役にしたドキュメンタリーが人気で、小悪魔ageha創刊前夜でもあり、コマ劇場や映画館街の周辺は、これから働く人、仕事を終えて飲みに行く人、仕事に行こうか飲みに行くか迷っている人、どっちにも行かない人などが忙しく往来していた。
コーラのSがとっくになくなって、直し続けた化粧が無駄に濃くなりだすと、オネエサンの携帯がうるさく鳴った。「昨日、取材したホストクラブの写真がボツになって、今日カメラマンだけ再撮に行ったんだよね」と私に説明しながら、気だるく電話に出たオネエサンは何度か、うん、うん、とか言ったあと、「え、燃えてる?」と言いながら大袈裟に笑いだした。聞いている私が目で、何?何?と訴えると電話を一瞬口から離して、「カメラマンが、撮影無理です、店が燃やされたって言ってるんだけど」と含み笑いで言って、また電話口で少し喋って電話を切った。まだ歌舞伎町という響きに一縷(いちる)の緊張感を持っていた田舎者の私は心中穏やかではなかった。ほんの2年少し前、NYの高層ビルで文明が衝突した日の10日前に、歌舞伎町の雑居ビルでは大きな火災があり、セクシーな制服を着た焼死体の写真は当時高校三年生だった私に強烈な印象を残したのだ。
物騒な表情の私を横にオネエサンは呑気だった。呑気に編集長らしき人に連絡した後、呑気にこう言った。「どうせボヤだよ、客がソファにライターのオイルで火つけたらしいけど」。自分で口にしたライターという言葉に触発されたのか、オネエサンは自分のタバコにも火をつけ、もう入っていないSサイズのカップを意味なく傾けた。
その後、私たちはどうしたのか、ホストクラブやバーに飲みに行ったのか、カラオケでもしたのか、中華でも食べに行ったのか、いまいち記憶が定かではないのだけど、外から見ている街と中から感じる街の温度は違うということ、街の外の文法で語られる街の中の出来事はどうやらその場の空気を切り取ってはいないということを素手で感じたのはよく覚えている。もし私が横浜の家で歌舞伎町のホスト客が放火というニュースを聞いたら、それなりのおどろおどろしいイメージを膨らませていたと思う。でも、数年前にその時のオネエサンに連絡をしてみたら、そんな会話をしたこと自体、覚えてすらいなかった。
この街について、外から膨らますイメージは、いつもどこか偏っていて、この複雑で多様な街を捉えきれていない。一つには、このほんの小さなエリアに多様なものが同居しているからだろう。それは新宿という異質な街、東京という雑多な都市それぞれにも言えることだが、とりわけ歌舞伎町は同居する異分子それぞれがあまりに強烈な光を持つために、醸成される複雑な空気を誰も正確に切り取って伝えることができないのだ。
江戸時代に宿場町として開設された新宿は、都内にあった他の多くの宿場と同様に歓楽街として盛えたが、いわゆる新宿遊廓は今でいう新宿2丁目周辺だったとされる。エリアとして歌舞伎町が建設されたのは、焼け野原となった戦後のことだ。『生き延びる都市』を著した武岡暢は、この都市開発の時点で、区画が比較的小規模だったこと、土地所有が細分化したことなどが、その後の街の性格に大きく影響したと考察するが、いずれにせよそのようにして、区役所と映画館と風俗店とライブハウスと飲食店が狭いエリアに集積する細分化と多様性の街は誕生した。
特に歌舞伎町のイメージを複雑化するのは、文化的娯楽と夜の歓楽という二つの大きな性格ということになる。他の多くの歓楽街にカルチャーの要素は少なく、多くのカルチャー街に風俗店の看板は並んでいない。歌舞伎の劇場誘致を見込んだ命名が物語るように、劇場や映画館の街としての歴史は長いが、他方では後に東洋一と呼ばれるほど歓楽街としても成長した。一説では赤線廃止後にそこにいた業者や娼婦たちが流入したことが、夜の街としての基盤を作ったとも考えられていて、それもそうかもしれないけど、私としては、映画や演劇の生まれる街が、人の欲望を排除しなかったこと、人の愚かさを愛したことはある種の必然のようにも思える。多様性って何、とようやく問われる時代になったが、そのずっと前から多様性を抱えざるを得なかったのが、映画演劇を含むブンガクと、はみ出し者が流れつくカンラクだったからだ。
そのような懐の深さを持った歌舞伎町は今日まで、一部は不埒な方面のものも含めて、完全には満たされることのない人の欲望を刺激し、それに応えてきた。道路が舗装され、道が拡幅され、ビルの防火設備を改善し、真新しい高層ビルができて客層が若返っても、完璧に幸福で、その幸福を疑いもしない人たちは滅多にこの街を訪れない。逆に言えば、何かちょっとでも不安や不満や所在なさを感じている人は、何かを求めてここへくる。
以前私の友人がセントラルロードを歩きながら、スカウトや居酒屋のキャッチが忙しなく声をかけてくる様子を、RPGの「村人みたい」と形容した。確かに、まだ何も持っておらず、成長する前の人たちが、まだ見ぬどこかへ行きたいという欲望を抱えて訪れ、目眩く冒険をするのであれば、ここはまさしく始まりの町だ。外から見ればとんでもないことが起こっても、中に入れば結構楽しめてしまうという意味でも、どこかちょっとゲームの世界のようでもある。
鈴木涼美
作家。慶應義塾大学環境情報学部在学中にAVデビュー。東京大学大学院学際情報学府修士課程修了後、日本経済新聞社へ入社。著書に『「AV女優」の社会学 なぜ彼女たちは饒舌に自らを語るのか』(青土社)、『身体を売ったらサヨウナラ 夜のオネエサンの愛と幸福論』(幻冬舎文庫)、『オンナの値段』(講談社)、『女がそんなことで喜ぶと思うなよ〜愚男愚女愛憎世間今昔絵巻〜』(集英社ノンフィクション)、『可愛くってずるくっていじわるな妹になりたい』(講談社)、『ニッポンのおじさん』(KADOKAWA)、最新作に『娼婦の本棚』(中公新書)など
text:鈴木涼美
illustration:フクザワ
photo:落合由夏