作品の制作風景をレポートした前編に引き続き、後編では篠原有司男氏とドローイングや版画のアーティストとして注目を集めるパートナーの乃り子(のりこ)氏をお招きして、「新宿」と「表現すること」をテーマにお話をうかがった。
「当時はコマ劇場もあったし、今もある武蔵野館って映画館も3本立ての時代」(篠原有司男)
— そもそも新宿にやってきたのはいつ頃のことだったのでしょうか?
有司男(以下「有」):元々は親父が勤めてた電電公社(現NTT)の社宅に住んでいたんだよ。それが荻窪だったから、新宿は近所だね。「社宅」と言っても結構モダンなアパートでさ。でも周りはお百姓さんだらけ。肥桶を担いでる人とかリヤカーに乗っている人がいるのよ(笑)。まあ自然豊かな武蔵野の一角だよな。そんな環境だったから、野外で絵を描いてた。若いから寒さとかも関係ないんだ。外って気持ちが良いし、とにかく色んなことから自由なんだよな。
— 東京藝術大学に通われていたそうですが、学校のある上野でも遊んでいたのでしょうか?
有:藝大ってのは人数が少ないからね。油絵科で40人、日本画科で20人、工芸科で5人。デザイン科でも20人とか。そういう感じだったからなあ…。
— 刺激が足りなかった、と。学校に行かないで新宿に行ったのでしょうか?
有:そう。「学校にも行かないで新宿」ってのも、なんか変だけどね(笑)。
乃りこ(以下「乃」):中高生みたいよね(笑)
有:でもさ、本当にウロウロしてたね。当時はコマ劇場もあったし、今もある武蔵野館って映画館も3本立てだった時代。
— 当時、新宿のどこに惹かれたのでしょうか?
有:新宿はリズミカルだったんだな。上野の藝大にはリズムがなかった。それは先生がいけないんだよ。ギリシャ美術とかルネッサンスとか印象派を崇めててさ。自分の「美の神」みたいなものを学生に押し付けてくる。新宿の場合は、そうじゃないものを作ろうとしている連中が集まっていたから。だからトークなんかもフリーなんだよ。それはもう無責任なトークなんだけどね(笑)。だけどさ、すごく活気があった。
「新宿でウロウロしていたらモダンジャズのブームが始まった」(篠原有司男)
— 60年代の新宿では、演劇、文学、音楽など様々なアンダーグラウンド・カルチャーが盛り上がっていたようですが、当時の様子を教えて欲しいです。
有:僕にとって当時の新宿は、ネオダダグループの「ホワイトハウス」、それとモダンジャズの二つ。
— 「ホワイトハウス」の話は後ほど伺うとして、やはり60年代の新宿といえばジャズですか。
有:「ジャズ」って言ってもさ、モダンジャズよ。その前にあったジャズって、俺にはタルっこくてさ。で、まずラテン(音楽)を好きになるんだ。ルンバ(※)とかマンボ(※)とかだね。それで俺が惚れ込んだのがプラード(※)。マンボに関しては今のほうが好きかもしれないね。
※マンボ:ルンバにジャズの要素を加えた音楽ジャンル
※プラード:ペレス・プラード。キューバ出身の作曲家、指揮者、ピアニスト。1940年代後半にマンボを大ブレイクさせたレジェンド。ステージ上で激しいアクションを交えた指揮と独特の掛け声で楽団を煽るスタイルで全世界を熱狂させた。
— ジャズとの出会いはいつ頃だったのでしょうか?
有:新宿でウロウロしていたらモダンジャズのブームが始まったんだ。火をつけたのはアート・ブレイキーだった。「Moanin’」(※)って「パッパ、ラカラカ、ラ〜ラ」って曲は知ってる?パリで演奏(※)してさ。その噂が日本まで伝わってきたんだよ。ジャズはさ、センチメンタルだけど、一人一人が個性的だった。竹フレームのメガネなんかをかけて、ピアノを弾いたりさ(※)。アート・ブレイキーのグループ(※)だって、リー・モーガンだとか4人いるんだけど、みんな個性的。で、当時は(ジャズの)良い悪いなんてわかんないんだけど、皆で「良い!」とか言ってさ(笑)。
※パリで演奏:1958年にパリのクラブ・サンジェルマンで行われた伝説のライブのこと。1961年1月に日本ビクターからライブ・アルバム『サンジェルマンのジャズ・メッセンジャーズ』が発売されたことを機に、日本国内でも「Moanin’」ブームが巻き起こった。
※竹フレームのメガネなんかをかけて、ピアノを弾いたりさ:おそらくセロニアス・モンクのことだと思われる
※アート・ブレイキーのグループ:Art Blakey & The Jazz Messengers。1961年の初来日時は、アート・ブレイキーのほか、リー・モーガン(tp)、ウェイン・ショーター(Sax)、ボビー・ティモンズ(p)、ジミー・メリット(b)という顔ぶれだった。
— 当時アート・ブレイキーを空港まで迎えに行ったと聞いています。
有:日本まで来る(※)と言うんで羽田までね。当時『週刊明星』って雑誌で働いてた友達が『東京の若者がアート・ブレイキーをお出迎え』みたいな記事を作る事になってさ。それで「バスをチャーターするから、みんなで来てくれ」ってことになったんだ。当然カメラマンがいるわけだけど、僕はモヒカン刈りで目立つもんだから「一番前で出迎えてくれ」って言われてさ。ところがこっちは英語なんか全然できやしないんだ。だから握手だけしたよ(笑)。で、そこからすぐに(アート・ブレイキーが)演奏会をやった。あの辺りが東京のモダンジャズの口火だったと思うな。
— アート・ブレイキー来日で、ジャズの一大ブームが起きたらしいですよね。「蕎麦屋の出前持ちまでもが“Moanin”を口ずさんでいた」というエピソードを聞いたことがあります。
有:あとラテンやなんかと違って高級文化人も動員してた。俺たちもそういう人たちが集まるパーティーに呼ばれて行ったよ(苦笑)。タレントがリムジンかなんかに乗ってやってきてさ。「モダンジャズに触れないと“ファッション”じゃない!」ってとこだろうな(笑)。
「『きーよ』って、モダンジャズの喫茶店があってさ。ビート族もいた」(篠原有司男)
— 新宿の街でもジャズを楽しんでいたと思います。どんな店で遊んでいたのでしょうか?
有:とにかく俺たちは金を持ってないからさ。「遊ぶ」と言ったって(お金がかかる店からは)お呼びじゃないんだよ。けど新宿二丁目に「きーよ」ってモダンジャズの喫茶店があってさ。ま、後からそういう喫茶店が増えてくんだけどな。その店でたむろしていた。ビート族(※)の人たちもいたね。コーヒー1杯の代金を払えば、いつまでいても良かったし、出入りも自由だった。
— ビートニクの人たちからジャズの手ほどきを受けたと聞いています。もしかして篠原さん自身もビートニクだったんですか?
有:いや!僕はやっぱりアーティスト(きっぱり)。そっちの方がプライオリティが高いと言うか、大事にしてたからね。
— 「きーよ」ではどう過ごしていたんでしょうか?夜な夜な酒を飲んだり?
有:飲んでない!だってお金がないんだもん。コーヒー代がやっとよ。
— ではコーヒーを飲みながらジャズを聴いていた、と。
有:いや聴いてないんだ(笑)。とにかく狭い店で、しかも音がバカみたいにデカいんだよ。だから聴いたってウルセーだけなの。ただ、それがリラックスできるんだよなあ。
— きーよには1年間ぐらい毎日通われていたそうですよね。
有:昼は武蔵野の一角で泥にまみれて土を掘ったり、木を切ったりして、彫刻とかアートの制作をしてさ。それで夜は新宿。きーよに行くってだけで、なんだか文化のバイブレーションのようなものを感じられるんだよな。コーヒーを一杯頼めば、友達に会えるし、色んな出来事も起こる。
— お友達も同じことを考えていたでしょうね。
有:そうそう。向こうも「誰かがいるだろう」という感じで来る。みんな似たような境遇でね。土方巽(※)っているでしょ?彼だって当時は安藤堀内ユニークバレエ(※)の稽古場にいるone of them。のちに有名になる写真家(※)なんかもいたけど、当時ニコンの F(※)を持ってる奴なんて全然いなかったよ。というか大半はカメラすら持ってなかった(笑)。あとはコシノジュンコとか、ちょっと変わったファッションデザイナーの人達とかもいたみたいだね。あと新宿には「ぼるが」(※)っていう変な焼き鳥屋があったんだよ。
※安藤堀内ユニークバレエ:土方巽や図師明子が所属していた堀内完・安藤三子ユニークバレエ団。
※のちに有名になる写真家:当時の新宿では、東松照明(とうまつしょうめい)、渡辺克己(わたなべかつみ)といった若手写真家が活躍していた。東松は『おお!新宿 』、渡辺は『新宿群盗伝』など、それぞれ60年代の新宿を被写体とした作品集を残している。
※ニコンの F:1959年に登場したニコン初の一眼レフファインダー式カメラでありハイエンド機だった。
※ぼるが:1949年に思い出横丁にて創業。1958年に現在地(小田急ハルク裏)へ移転している。創業者の高橋茂は俳人でロシア文学にも通じていた。店名もロシア南西部を流れる大河・ボルガ川にちなむ。
— 今でもありますね。
有:今でもあるんだ!あそこの親父も文化のサポーターなんだよね。自分も詩人かなんかで、焼き鳥と焼酎で「文化の場」みたいなものを作ってた。だから当時の新宿って文化的な場所だったんだよ。
— 60年代の新宿といえば演劇も盛り上がっていたと思います。
有:モダンバレエの連中はちょっと知ってたけど、演劇関係との繋がりはゼロだったね。その頃の新宿では、天井桟敷(※)とか唐十郎(※)なんかも活躍してたけど、ちょっとカルト的だったんだよ。だから観に行ったこともなかった。とにかく僕たちはフリーでインターナショナルなセンスを求めていた。で、ジャズにはそれがあったんだよね。
※唐十郎:俳優。劇団「状況劇場」を主宰。新宿花園神社境内に紅テントを立てて上演を行っていた。
— 他のジャンルの表現者と積極的に交流する感じではなかったんですね。
有:でもさ、そういう人たちが集まって「雰囲気」が出来上がってるんだよな。それが新宿の良さよ。銀座をウロウロしたって、あそこは高級クラブばっかりじゃない?そこに、お金をひけらかす連中が大勢いてさ。でも新宿の連中はお金をひけらかすんじゃなくて、若々しいエネルギーを発散していた。それはファッションでもなんでも。
「ホワイトハウスは夢のスペースだった。ここなら現代美術に挑戦できるって思った」(篠原有司男)
— 60年代の新宿にアート関連のスポットはありましたか?
有:少なかったよね。画廊は銀座にあるから。ただ新宿にも一軒だけ<椿近代画廊>(※)ってのがあって、アートの発表の中心になってた。俺たちはオヤジと友達だったこともあって、ラディカルな作品でも出せた。スペースが三つある貸し画廊でさ。お金を払うと発表できるから、みんな一人当たりの負担を軽くするためにグループを作って発表するわけ。「ネオダダ(イズム・オルガナイザーズ)」もそういうグループの一つだね。吉村益信っていうのと百人町の「ホワイトハウス」ってアトリエに集まってた。
※ホワイトハウス:1957年に完成した画家・吉村益信のアトリエ兼住宅。設計は建築家の磯崎新。現在はWHITE HOUSEとなり、Chim↑Pom from Smappa!Groupの卯城竜太、アーティストの涌井智仁、ナオ ナカムラの中村奈央のディレクションにより会員制アートスペースとして活用されている。
— 「ホワイトハウス」は、ネオ・ダダの吉村益信さんが建築家の磯崎新(※)さんに作ってもらった家ですよね。
有:吉村は九州の金持ちの息子よ。10人兄弟の10番目でね。すごく変わったやつなんだ。大酒飲みで、リッチマンでね。口癖は「ガッツと根性」。ガッツと根性なんて全然ねえくせにさ(笑)。そういう面白いやつが大将になってさ。
— 当時の百人町ってどんな場所だったんですか?
有:周りは連れ込み宿とかだね。まあグチョグチョよ(笑)。でも俺にとってホワイトハウスは夢のスペースだった。「ここなら現代美術に挑戦できる」って思った。だから(グループを作るように吉村氏を)煽ったんだ。まあ利用したんだよな。で、彼も絵描きだったから、その煽りに乗った。当時の彼は武蔵美の学生だったのかな?同級生みたいなヤツらを集めてきて、その中に赤瀬川(源平)とか荒川(修作)がいてさ。 それで盛り上がったんだよな。
— なぜ「ここなら現代美術に挑戦できる」と思ったんですか?
有:造形アートっていうのはブツを作らなきゃいけないから。とにかく物を作るってこと、それを発表するってことは具体的なんだよね。手続きがいるんだ。
— 作品を作る場所や保管する場所も必要ですよね。ホワイトハウスでも頻繁に展覧会をやっていたのでしょうか?
有:吉村のところ(ホワイトハウス)はグループの展覧会をアトリエ展という形でやったけど、後は集まってるだけ。土曜日に「パーティーをやろう」って言って、色んなことをやってたね。
— 当時、世間からかなり注目を集めていたみたいですね。
有:ところが僕たちのやっている50年代とか60年代の現代美術って金になんないんだよ。芝居みたいに入場料を取っているわけじゃないし、かといって作品が売れるわけでもない。そもそも日本には現代美術の画商がいなかった。だから、ある意味で純粋だったんだけどね。アメリカ(の現代美術)はビジネスでしょ。
— それが渡米したきっかけにも?
有:俺がアメリカに行ったのは、絶対的に「憧れ」だよ。外国からのインフォメーション(情報)を見ると…「インフォメーション」と言ったって、新聞とか美術雑誌の小さな切り抜きとかその程度だよ。そういうものを見て、針小棒大に想像を膨らませてさ。そこから(自分の中に)イメージを作るんだ。そのイメージに従って作品を作って発表してたんだ。でも当時の日本の現代美術の状況って言ったらさ、売れない、材料がない、画商はいない、ミュージアムは現代美術を使わない。俺は学校もクビになってるし、友達もいない(苦笑)。
「やらないと生きてられないって人だけがやればいい」(篠原乃り子)
— 日本では作品がお金にならなかったことも、渡米の理由となったのでしょうか?
有:そこは説明がつけられないよね。お金にならなくたってやらなきゃなんないんだよ。
乃:この前どっかのアートスクールの生徒さんから変な質問を受けたのよね。「いつ頃からアートで食べれるようになりましたか?」って。そんなこと聞いてる時点で既に落伍してるのよね。だってそんなことを気にするくらいなら、公務員とか銀行員の方がよっぽど食えるわけだから。「70年ぐらい食べれないわよ」って言ってやったのよ(笑)。
— 手厳しいですね。
乃:芸術だろうと文学だろうと音楽であろうと、表現というものは「それしかできない」「やらないと生きてられない」って人間だけがやれば良いの!今は皆が表現しようとするじゃない? そういうのが格好良く見えるようになったのもあるし、現代アートに関しても80年代ぐらいから売れるようになってきた。そうすると親が子供に「頑張れ」って言うじゃない?で、アートスクールもミュージックスクールもいっぱいあるからさ。なんとなく通う人が出てくる。それが間違いの元だと思う。
— 仕事としてアートを選ぶ人が出てきた、と。乃りこさんが表現を続けてきたのは、何が原動力になっているのでしょうか?
乃:何て言えばいいのかな…。少なくとも「原動力」みたいな「自分が引っ張っていく」感覚ではないんだよ。(ちょっと考えて)「囚われてる」わけよ。アートのマジックがあって、そういうものに「引っ張られている」感じ。
— なにか自分の奥底にある衝動に突き動かされるみたいな?
乃:それはちょっと格好良過ぎる(笑)。ズルズルやってるに過ぎないのよ。若い頃は疑問を感じる瞬間だっていっぱいあった。でも今になってみると…結局それしか続けられるものがなかったってことだよね。
— 辞めたいと思ったことは一度もない?
乃:いっぱいあるわよ!だって生きていけないじゃない?相手がコレ(篠原有司男氏を指して)だからさ。もう生活は地獄に近いわけ(笑)。
— それでも続けるんですよね。
乃:と言うかさ、もっと優しくて稼いでくれる人と一緒になっていたら、家庭がつくれて、それでもって手芸とかお料理とかそういう先生をやったりさ。そっちの方が「幸せ」に決まってるじゃない?でも、こんなのと一緒にいたら「お料理を作ろう」と思っても材料さえ買えないんだよ。そしたらもう…アートしかないじゃない?
— でもそういう二人の経験がのりこさんの表現につながっている所もあるんですよね。
乃:それはもちろん!でも突き詰めていくと「それしかないから」。
— では篠原さんにとって「表現」とは。
有:確かに「悪魔に引っ張られる」みたいなのはある。(ちょっと考えて)…人間の中で一番大事なものだと思ってるんだよ。美術学校の生徒にレクチャーをしたことがあるんだけど、自分の内で燃える「何か」がない人ばっかりなんだよ。表現する「何か」がなければ、アートなんかやったってしょうがないのに。逆に(世の中を見ると)「何か」があったとしても、何をして良いかわからない人もいるよな。でもさ、そういう人にもアート(という選択肢)があるんだよ!で、俺はその中でも造形美術って一番大事なものだと思ってる。
— なぜでしょうか?
有:(ちょっと考えて)触れるから。全く新しい「何か」を、モノを使って表現できる。そのギャップっていうのかな…自分の中に燃える幻影をモノにして人に押し付ける。…って、めちゃくちゃな話をしてるな、オレ(笑)
— 思いを物体に変換することの面白さと言うか。
乃:私は逆だな。アートとか人間のやることの中で一番素晴らしいのは、ポエムとかミュージックだと思う。なぜかって言うと物を使わずに頭の中で出来るから。ミュージックに関しては楽器を使うけど、ハミングするだけでも出来る。道具、材料、場所が必要だってことになれば、それにしがみつかなきゃいけなくなるじゃない?最悪だと思うよ。だってそういうものがないと出来ないんだから。
篠原:(苦笑)
「何をやったとかではなくても、内に燃える何かを持てるようになるといいね」(篠原有司男)
— 最後に新宿の話に戻りたいのですが、60年代の若者はなぜ新宿に集まったんでしょうか。
有:俺にとっては「オアシス」だったかもしれないね。
乃:そこに行けばホッとするっていうことね?
有:当時の俺は大学では勉強しないし、美術学校にも入ってない。フリーなペインターなわけ。で、周りだって親もいねえ、金もねえ、金貸すやつは一人もいねえって、そんな連中ばっかりなんだ。けどさ、みんな内に何か燃える何かを持ってるわけよ。それが具体的には出ないんだよな、まだ。でも確かに持ってるんだよ。持ってウロウロしてたんだよ。そういう場所だったね。
— これからの新宿に期待することは?
有:創造的な雰囲気を作り上げる街になれば良いんじゃないかな。みんなが希望を持って集まってさ。で、ただブラブラ歩いて遊んでるんじゃなくて、内に燃える「何か」を持てるようになると良いね。「これを成し遂げてやる」とかでなく曖昧でも良いんだ。きーよにしたって、皆が燃える「何か」を持ちながら集まってたけど、そこからブームを作ったかって言うと、そういう感じではなかったしね。
— 新宿で内に燃える「何か」を育てて、やがて羽ばたいていった方も多い。これからの新宿も、そういう場所になって行きそうですかね?
有:文化の活性化の中心になりそうな気はしてる。俺の絵を飾るビル(※東急歌舞伎町タワー)にも、シアターとかパフォーマンス・スペースがあるよね。そういう場所があれば、色んな人たちが勝手な企画を持ってきて試してみるということも出来るだろ?で、それを見た若い人たちは、想像力やアイデアを持てるようになると思う。そうやって創造的な雰囲気のある街になってほしい。そうすれば、そこに魅力を感じた人たちが、また集まってくるんじゃないかな。
篠原有司男
1932年東京生まれ。1960年に結成された「ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ」主要メンバー。新宿でのパフォーマンスや破天荒な活動で日本の美術界に衝撃を与える。1969年渡米以降、ニューヨークを拠点に活動。原色を大胆に使った大型の絵画や「ボクシング・ペインティング」など、エネルギッシュな作品で国内外から高い評価を受ける。
篠原乃り子
1953年富山県高岡市に生まれる。1972年、高岡高校卒業後芸術家となるべく渡米するも半年後に篠原有司男と出会い、愛と憎しみと貧しさを知る。絵画と銅版画の制作を続け、銅版画では賞を得るも、2006年より描き続けたその記録「Cutie Series」がDocumentary Film 「キューティー&ボクサー」の中でAnimationとなり、映画の内容を位置付けた。
(撮影)丸尾隆一
《オーロラの夢》
キャンバスにアクリル H180xW1000cm
新宿「ホワイトハウス」を拠点に活動した前衛芸術グループのメンバーである篠原。代名詞と言える「ボクシング・ペインティング」は、絵筆の代わりにグローブに絵具を浸しキャンバスをヒットして描く、時間軸をもった絵画作品。日本の伝統的な絵画を思わせる色味を用い、伝統と革新の融合を、雄大に広がるオーロラのような大画面に描き出された本作は、1階エントランスにて、新宿歌舞伎町という街のエネルギーを来館者に体感させる。
photo:キャプションに記載のないものはパフォーマンス記録映像より抜粋
text:DAI YOSHIDA