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坂本龍一が託した“曇りのない正確な音”ーエンジニアが語る109シネマズプレミアム新宿「SAION」誕生秘話

歌舞伎町

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イベント 映画館 東急歌舞伎町タワー
DATE : 2026.07.01
「日本で一番音のいい映画館になったと思います」

スクリーンに映し出された坂本龍一は、静かにそう語った。

2026年6月6日(土)、109シネマズプレミアム新宿で開催された「109シネマズプレミアム新宿開業3周年記念 スペシャルファンミーティング」。開業3周年を迎えた同館が、日頃から劇場に足を運ぶ会員に向けて行ったこのイベントは、同館の最大の特徴である音響システム「SAION -SR EDITION-(サイオン エスアールエディション)」に焦点を当てたものとなった。

登壇したのは、109シネマズプレミアム新宿 総支配人の廣野雄亮と、株式会社イースタンサウンドファクトリーの代表・佐藤博康。佐藤は、坂本が「信頼している音響のエンジニアの一人」と語った人物であり、この劇場の音づくりに深く関わったエンジニアである。

イベントでは、SAIONがどのように生まれたのかという経緯に加え、通常の上映では聞くことのできないピンクノイズなどのテスト音源、開業前の音響調整で実際に使われたリスニング音源、坂本龍一『async surround』、さらに2チャンネルステレオ信号を原音の質感を残したまま立体的に再生する「SAION Super Real Effects(SSRE)」のデモンストレーションも行われた。

音響システムについて語るイベントでありながら、そこで繰り返し語られていたのは「スピーカーの存在をいかに消すか」という坂本のビジョン。映画に入っている音をどれだけ濁らせずに届けるか、そして観客がどのような耳の状態で作品に向き合うかという、映画体験そのものに関わる話だった。

新宿ミラノ座の跡地に、もう一度“特別な映画館”を

イベントの冒頭で廣野がまず語ったのは、この映画館が生まれた場所の記憶についての話だ。現在、109シネマズプレミアム新宿が入る東急歌舞伎町タワーの場所には、かつて新宿ミラノ座があった。1956年に開業し、長く多くの映画ファンに親しまれてきた劇場である。2014年12月31日に閉館し、58年の歴史に幕を下ろしたが、その場所は東急レクリエーションにとって「創業の地と言っても過言ではない」特別な場所だった。

 109シネマズプレミアム新宿 総支配人 廣野雄亮

新宿ミラノ座の跡地で再開発が進むにあたり、そこにもう一度、特別な映画館を作りたい。映像、音響、座席、シアター内の環境、ラウンジを含めた空間全体。映画を観る前から観終わった後まで、体験のすべてを磨き上げた映画館にしたい。その中で、音響はとりわけ重要な柱として考えられていた。

「世界一の音のいい映画館を作りたい」。その目標を実現するためには、自分たちだけでは難しい。世界レベルのアドバイザーが必要だった。

坂本龍一は、数々の映画音楽を手がけてきた音楽家であり、映画そのものへの深い理解を持つ存在でもある。さらに、新宿高校に通っていた坂本にとって、新宿は若い頃に映画館へ通い詰めた街でもあった。映画、音、新宿。東急レクリエーションは坂本に音響監修を依頼することを決める。

依頼のメールを送ったのは、コロナ禍の真っただ中だった。映画館を含むエンターテインメント産業が大きな打撃を受けていた時期である。109シネマズプレミアム新宿の開発チームは、映画業界が苦しい状況にある中で、それでも本当にいい音が鳴る映画館を作りたいという思いをメールに込めた。

メールは坂本のマネージャー宛に送られた。ところが翌日、返信を送ってきたのはマネージャーではなく、坂本本人だったという。

「坂本龍一です」

返信が来たのは2020年10月2日。本人から前向きな返事が届いたことに、チーム一同、大きく驚いたという。翌月にはオンラインミーティングが行われ、坂本も参加して、どのような音響システムを目指すのかが話し合われた。そこで定まった方向性が、「曇りのない正確な音」だった。

スピーカーだけを良くしても、良い音にはならない

坂本からの助言で、廣野が特に印象に残っているのが、「スピーカーだけをいいものにしても意味がない」という言葉。最初に坂本が確認したのは「歌舞伎町タワーの電流が安定しているかどうか」だったと廣野振り返る。「スピーカー、ケーブル、パワーアンプ、電力、部屋の響き、そのすべてが揃って初めて良い音が出るということを痛感しました」。

劇場建設時の様子。白い資材は吸音材

病床にあって思うように外出が叶わない坂本が現場の指揮を託したのが、自身の音響、サウンドシステムをエンジニアとして支えた佐藤だった。彼は坂本から示された「曇りのない正確な音」を実現するためのポイントを「ルームアコースティクス」「パワー」「ワイヤリング」の3つに整理して説明した。

株式会社イースタンサウンドファクトリー 代表 佐藤博康

ルームアコースティクスは、劇場という部屋そのものの響き。パワーは、単に大きな音を出すための電力ではなく、美しい波形の電流を安定して供給すること。そしてワイヤリングは、機器をつなぐケーブルの品質を指す。いずれも観客の目には触れにくい部分だが、音の土台になる大切な要素である。

坂本の指摘を受け、電力設備は見直された。スピーカーケーブルについても複数の候補を集め、渋谷のBunkamuraスタジオで比較試聴を実施。最終的に選ばれたケーブルは、さらに電力を伝えやすい仕様へとカスタムされ、劇場専用のオリジナルケーブルとして導入された。

使用する機材の選定にあたって行われた比較試聴会

映画館の音響システムでケーブルを一から作るというのは、廣野にとってもそれまでの発想にはなかったことだったという。だが、坂本が求めた「曇りのない正確な音」を実現するためには、そうした一つひとつの要素を詰めていく必要があった。

パワーアンプも世界中の製品から選定され、シアター内部では吸音性能を高めるため、壁の中に通常よりも厚い吸音材が組み込まれた。映画の音をできるだけ正確に、濁らせずに届けること。そのために、見えない部分まで整えていく作業が続けられた。

スピーカーの存在を消す

イベント後のインタビューで、佐藤は坂本との仕事を振り返りながら、「スピーカーの存在を消すこと」を何度も求められてきたと話した。

印象的なエピソードとして語られたのが、坂本のライブで音響調整をしていた時のことだ。佐藤はライブパフォーマンスということもあり、やや大きめに音圧を取っていた。すると、離れた席で聴いていた坂本から声をかけられた。

「ステージ上に音源があって、僕がいるここまでは20数メートルある。ここでこんなに(音が)強く聞こえるのはおかしくない?」「この位置では(音が)弱まっていて欲しい。」

その言葉は、佐藤にとって大きな学びになったという。音が、その距離に応じて自然に聞こえること。音響システムの存在が前に出すぎないこと。坂本はコンサートでもインスタレーションでも、そうした聞こえ方を大切にしていたという。

劇場の側面に設置されているツィーターアレーBWV TE-1

この考え方は、109シネマズプレミアム新宿のチューニングにもつながっている。

佐藤は「映画が主役であるように。スピーカーの存在を消すようなチューニングを心がけた」と話す。その一端を体験する時間として、イベントでは通常の上映では聞くことのないテスト用の音も再生された。ピンクノイズに続いて、坂本龍一『async surround』から「tri」と「andata」が流される。

中でも「tri」は、チューニング時に重要な基準になっていたという。トライアングルの音が印象的な楽曲で、佐藤たちは、その三音目が頭上から降ってくるように感じられるかを確認していた。天井にスピーカーがあるわけではない。それでも、音が上からすっと落ちてくるように感じられる。その聞こえ方を目指しながら、細かな調整が重ねられた。

「andata」は音色の確認に使われた。音楽として破綻していないか、質感が正しく出ているか。音響調整のための素材でありながら、同時に坂本の音楽そのものをこの劇場で聴く時間でもあった。

“曖昧な正確”というチューニング

佐藤が最終的なチューニングのキーワードとして紹介したのが、「曖昧な正確」という言葉だった。

それは、療養中だった坂本の仮住まいを訪ねた際のやり取りから生まれたものだという。佐藤はオーディオ機器の修理のために坂本のもとを訪れ、作業を終えたあと、先日足を運んだ水琴窟の動画を坂本に見せた。地中に落ちる水滴が反響し、独特の余韻を響かせるその音を、坂本は目を閉じて何度も聞き、「本当にいい音だね」と話したという。

その後、床に並んだ夏目漱石全集の話になった。佐藤が「何がおすすめですか」と尋ねると、坂本は『夢十夜』を挙げた。佐藤はそれを読み、坂本の『async』や『out of noise』の感覚と結びついていったと振り返る。

「曖昧な正確」という矛盾をはらんだ言葉の真意は、音を正確に出しながら、スピーカーの位置やシステムの存在を感じさせない状態を指す。はっきり鳴っているのに、出どころは前に出ない。輪郭はあるのに、押しつけがましくない。そのバランスが、SAION SRの調整において大きなテーマになっていたのだ。

音響テストの分析画面

音響システムは、存在を主張しようと思えばいくらでもできる。迫力ある大音響や地響きのような低音で映画にインパクトをプラスする劇場もある。だが佐藤が坂本のために心がけたのは、映画が主役であり、音響は作品の中にある音を正しく届けるためにあるということだった。

映画を見る前に、耳を開く

坂本が目を向けていたのは、シアター内の音響だけではなかった。

廣野によれば、坂本からは「良い音響システムを作ることも大事だけれど、それを聴く側の耳の状態も同じくらい大事だ」という話があったという。109シネマズプレミアム新宿があるのは、新宿・歌舞伎町である。街には人の声、車の音、店の音楽、さまざまなノイズがある。その中を通ってきた観客が、いきなり映画の音へ向き合う。その前に、一度 “耳を開く”時間が必要ではないか。

坂本は当初、施設内に音が一切しない無音室を作れないかと提案した。しかし、建設はすでに進んでおり、無音室を新たに作ることは難しかった。そこでチーム内で検討を重ね、ラウンジの空間で坂本による音楽を流し、観客がシアターに入る前に耳を整える時間を作れないかという案が生まれた。

その結果、ラウンジで流れる音楽、シアターの開場を知らせるチャイム、映画本編前に流れるロゴ音を、坂本に制作してもらうことになった。体調が優れない坂本に依頼することへの葛藤もあったというが、それでも思い切って相談したところ、坂本は快く引き受けてくれた。

ラウンジフロア

2022年12月末、坂本から3つの音源が届いた。廣野は、それを実際にラウンジやシアターで再生したとき、「この空間が完成した」と感じたという。ラウンジに流れる音は、映画が始まる前の時間を静かに整えるものとして、現在の109シネマズプレミアム新宿の体験の一部になっている。

歌舞伎町の喧騒からラウンジへ、ラウンジからシアターへ。その移動の中で、観客の耳を少しずつ映画へ向かわせていく。その考え方もまた、坂本がこの場所に残したものの一つだ。

坂本が劇場で聴こうとしていた音

音響システムの設計と施工が進み、2022年秋頃には、坂本を現地に招いて実際に音を確認してもらう段階に入っていた。坂本からは、劇場で実際に鑑賞してみたい作品のリストも届いていた。

その中には、アンドレイ・タルコフスキー監督の『鏡』や『惑星ソラリス』、そして坂本自身が音楽を手がけた『シェルタリング・スカイ』が含まれていた。イベントでは、それらの作品のサウンドトラックから、エドゥアルド・アルテミエフによる「マタイ受難曲」「イエスよ、わたしは主の名を呼ぶ」、そして坂本作曲の『The Sheltering Sky Theme』を実際に聴く時間も設けられた。

しかし、当の坂本本人が現地を訪れることは叶わなかった。訪問予定の前日に体調悪化の連絡が入り、日程は延期となる。その後も何度か調整が続けられたが、2023年3月28日、坂本は亡くなった。

廣野は、後に坂本の著書『ぼくはあと何回、満月を見るだろう』を読み、当時のプロジェクトの時系列と重ね合わせたとき、どれほど大変な状況の中でこの映画館に関わってくれていたのかをあらためて感じたという。坂本は現地に来ることはできなかったが、佐藤とのやり取りを通じてシステムに信頼を寄せ、劇場は2023年4月に開業を迎えた。

イベントの終盤に行われたのが、2チャンネルステレオ信号を、原音の質感を残したまま立体的に再生する「SAION Super Real Effects(SSRE)」のデモンストレーション。会場では『YUKIHIRO TAKAHASHI LIVE 2018 SARAVAH SARAVAH!』より「SARAVAH!」が再生された。

迫力ではなく、正確さを守る

SAIONの音響を体験した後には、観客から事前に寄せられた質問に廣野と佐藤が回答した。音の環境をどのように維持しているのか、作品ごとに調整しているのか、といった質問である。

音響の維持については、劇場スタッフが毎日チェックを行い、違和感があれば佐藤にも相談しながら状態を保っているという。作品ごとの調整については、すべての作品に対して細かく音を作り替えるわけではない。基本的には、作品に入っている音を正確に出すことを大切にしながら、必要に応じて確認を行っている。

「この劇場の音響は、最終的に坂本龍一さんが聴くことを前提に、ある種の緊張感と基準を持って作られた。だからこそ、単なる高性能な音響設備ではなく、坂本さんの存在そのものがこの劇場を唯一無二のものにしている」という佐藤の言葉が印象的だった。

イベント後のインタビューで佐藤は、坂本の言葉を引きながら、「聴き手が音を掴みに来る感覚」について話してくれた。音を一方的に浴びせるのではなく、観客が耳を澄ませて音へ向かう。音量を上げすぎないことで、かえって音の細部を聴こうとする。その感覚は、坂本が音楽制作やライブの現場でも大切にしていたものだったという。

静かな映画から聴こえてきた、たくさんの「音」

「一番音が良いと思った作品は?」という質問に対して廣野が挙げたのが、アピチャッポン・ウィーラセタクン監督の『メモリア』だった。一般には静かな映画として受け止められることも多い作品をこの劇場で観たとき、実は多くの環境音が入っていることに気づかされたのだとか。森の音、遠くで鳴る音、空間の奥にある細かな響き。静かな映画だと思っていたものが、実はとても豊かな音の情報に満ちた映画だったのである。

また、映画『国宝』の李相日監督と、音楽を手がけた原摩利彦が同館を訪れた際にも、音の聞こえ方について、高い評価を受けたという。作り手が意図した音が、どのように観客へ届くのか。その点においても、109シネマズプレミアム新宿は特別な確認の場になっている。

廣野が意外な例として挙げたのが、『名探偵コナン』だった。開業時期と重なって上映されていたこともあり、この劇場で観たときに、声優が吹き込んだ声が非常にきれいに録られていることに驚いたという。声の輪郭や録音の質感がはっきりと聞こえ、アニメ作品においても音響の正確さが体験を大きく変えることを感じたという。

坂本龍一が示した「曇りのない正確な音」。その音は、観客を圧倒するためだけのものではなく、作品の中にある音を、できるだけそのまま届けるためのものだ。だからこそ、この劇場で映画を観ると、一度観た作品であっても、まだ聴こえていなかった音に出会うことがある。坂本が最後まで関わろうとした映画館。その思想は、機材の裏側だけでなく、観客が耳を澄ませる一瞬の中にも残っている。

文:三木邦洋

写真:谷川慶典

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