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【NEXT UP! #2】松澤在音:母と師匠に導かれて──居候と路上で鍛えた“底力”

歌舞伎町

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NEXTUP
DATE : 2025.10.21
劇場、ライブホール、屋外ステージ、路上ライブスペース、ナイトクラブ──さまざまな“表現の場”が、東急歌舞伎町タワーにはある。ダンサー、シンガー、アイドル、DJ…。そこで日々パフォーマンスを行うクリエイターたちの顔ぶれもまた、幅広い。

あらゆる価値観が交差する歌舞伎町に集う次世代の才能たちの、過去・現在・未来に迫るインタビューシリーズ「NEXT UP!」。

第二回は、ミュージシャンの松澤在音が登場。「音が在る」という名を体現するように、R&B、ファンク、ソウルをルーツに、唯一無二のリズム感とグルーヴで力強く歌う新進気鋭のミュージシャンだ。KABUKICHO TOWER STAGEで開催された「TOKYO PLAYGROUND#2」に出演した彼に、幼少期からこれまでについて、高校卒業後の突飛な歩み、そしてこれからの展望について聞いた。

<NEXT UP!的 推しポイント>

  1. R&Bが胎教音楽! 生粋の音楽人間
  2. インターネットで知り合った“おっちゃん”の家で音楽武者修行
  3. 子どものような大人になるために。社会に対しての「負けん気」

松澤在音(まつざわ・ざいおん)

ミュージシャン。2004年1月2日生まれ。大阪府出身。尊敬する人は母親。名前の由来は音楽が幸せの象徴だという思いを込め、「幸せ=音」がここに存在するという意味と、ローリン・ヒルの「To Zion」から。

好きな色は赤。好きな食べ物はマグロ。理由は赤いから。現在は京都のバンド「浪漫革命」のメンバーから借りたギターを使用中だが、赤いストラトを購入予定。胎児のときからR&Bやファンク、ジャズ、ソウルなどを聴いて育つ。

幼少期から歌い始め、中学時代にはダンスイベントや路上ライブで歌唱。高校に入るとギターを購入し、弾き語りを開始。コロナ禍で時間があったため1日10時間以上ギターを弾いていた。高校卒業後は音楽系の専門学校へ進学しようと考えていたが、インターネットで知り合った和歌山県在住の元バンドマンの男性の家に居候し、音楽理論やDTMを学ぶ。週末は大阪で弾き語りをして生活費を稼ぎ、和歌山と大阪を行き来する生活を1年間送る。

19歳のときにスーツケース1つとギター2本を持って上京。友人の家を転々とし、弾き語りをしながら生活する。SoundCloud上にゆらゆら帝国『空洞です』や細野晴臣『ろっかまいべいびい』のカバー、YouTubeにはカネコアヤノ、andymori、坂本慎太郎、竹内まりやなどのカバー動画をアップし話題を集める。2024年11月にはシングル『好きにすれば』を配信リリース。2024年に初のバンドセットでのワンマンライブを開催。また、浪漫革命『世界に君一人だけ』のコーラスにも参加。2025年2月には『Anybody Knows』、5月には『Dreaming』を配信リリース。最近引っ越しが完了し、ようやく東京に定住地ができた。コーラスを担当するカマルと同居中。

Instagram YouTube

—Beginning— 
母の音楽とともに育ち、歌うことが自然だった幼少期

─ 幼少期はどんな子どもでしたか?

赤レンジャーに憧れていました。赤が好きで、ど真ん中にいたい目立ちたがり屋。めっちゃ明るいバカでしたね(笑)。3、4歳のときは、自分のまわりにプラレールを作って、その線路の中央に座って、2、3時間くらいずっと見ているような子どもでした。

─ 好きなものに深く集中するタイプだったんですね。音楽の原体験は?

マミーが音楽好きで、お腹にいるときから1980〜90年代のR&Bやファンク、ジャズやソウルを聴いていたんです。それで自然と好きになりました。僕、たぶん日本一のマザコンで(笑)。小さい頃は寝る前に「I love you」「Me too」って言い合う習慣がありました。そんなマミーのiPodに僕のルーツがたくさん詰まっていますね。スティーヴィー・ワンダーやディアンジェロ、ローリン・ヒル、マーヴィン・ゲイ、アース・ウィンド・アンド・ファイアーとか。特にスティーヴィー・ワンダーの『Superstition』は、「同じ曲をかけ続けるのをやめてくれ!」って怒られるくらいずっとループしてました。

幼少期の1枚

─ 自分で音楽を始めたのはいつですか?

子どもの頃から気づいたら歌っていました。当時はめちゃくちゃな英語でブルーノ・マーズを歌ったり、小学校の頃は合唱のときにみんなが裏声で歌っているなか、僕だけ地声でバコーンって歌ったりしていて。僕は純粋に楽しくて気持ち良かったからそうしてたんですけど、みんなからは「なんで地声で歌うんだ?」「しかも声でかいし」みたいに言われてましたね。でも、先生たちは「在音、歌うまいな」って言ってくれて。中学1年になったら路上ライブをしたりダンスイベントで歌ったり、人前で一人で歌う機会も増えていきました。

─ 楽器はいつから始めましたか?

楽器は17歳からです。それまでは歌ばかりだったのですが、コロナ期間にギターを買ってもらって。暇でしたし、興味もあったし、学校もなくて何も面白くなかったのでとりあえずやってみようと思って始めました。

─ なぜギターを選んだのですか?

やっぱり赤レンジャーになりたかったからじゃないですかね(笑)。ど真ん中でギターをかき鳴らす、みたいな。YouTubeを見たり、本を読んだり、ネットで知り合った人に教えてもらったりしながら、1日10時間くらい、ただただ夢中で弾いて歌っていました。

ギターを弾き始めたころ

—Essence— 
在音って名前つけたし、しゃーないわ──居候生活で掴んだ底力

─ 高校卒業後の進路はどのように考えていましたか?

11歳までは総理大臣になりたかったんですよ。12歳から13歳くらいまではドラマーになりたくて、14歳くらいから歌手を名乗り始めました。高校時代に進路を考える際も、他の選択肢は考えたことがなかったです。17歳でギターを手にしたときに曲が作れるようになりたいと思って、高校卒業後は音楽系の専門学校に行こうと思っていました。専門学校に行けば上手くなるかなって。

─ それで専門学校に?

いえ、弾き語りをネットにあげていたのですが、それでおっちゃんと知り合って。

─ おっちゃん?

東京でバンド活動していたけど辞めて、和歌山で生活しているおっちゃんがいて。「一緒にギター弾こうぜ」みたいな感じで2、3回遊んだことがあったんですけど、そのおっちゃんが、パソコンとアンプとギターとベースとキーボードがいっぱいある音楽部屋と寝室とベランダのある、水平線が見える家に住んでいて。僕が高校卒業したタイミングで、「家来るか?」って言ってくれたので、1年間そこに住まわせてもらいながら朝から晩までDTMして、おっちゃんと2人でずーっと曲を聴いて研究しながら音楽理論の勉強をずっとしていました。

─ 専門学校には行かず?

行かなかったです。おっちゃんのところに行くのがいちばん面白そうだなって思って。

─ すごい決断ですね。おっちゃんの家に行くと言ったとき、ご家族の反応は?

最初は「バカじゃないの!? 何言ってんの!?」って言われました。そりゃそうですよね(笑)。でも、1日経ってマミーからLINEが来て、「在音って名前つけたししゃーないわ、行きなさい」って言ってくれました。あと、「おっちゃんの家にいるのは1年間って決めときなさい」って言われて。そのときは「えー、もっとおってもいいやん」って思ってたんですけど、今になって期限付きだった意味がわかりました。楽しいかもしれないですけど、ずっとそこにいても何も始まらないですもんね。

─ 生活費などはどうしていたんですか?

お金がなくなったら、週末に電車で3時間半かけて大阪まで帰って、金曜と土曜の22時から6時まで難波で路上ライブをしてお金を稼いで和歌山に戻って、そのお金がなくなるまで生活して…ということを繰り返してました。

─ 最初からそうやって生活していこうと決めていたんですか?

いやいや、単純にアルバイトが嫌だったのもありますね。高校時代はたこ焼き屋でバイトしてて、僕、20分で128個焼けるんですよ。でも、当時は目上の人に文句を言っちゃったりもして…。なんか面白くないし違うなあって。それだったら路上ライブで稼ごうって思いました。路上ライブでお金をどうやったら稼げるか考えて、おじさんが見えたら尾崎豊を歌い出す、みたいなことをやっていたのですが、それが成功してましたね。

─ 1年間の修行を経て、そこから東京を拠点にするようになったのですか?

そうですね。19歳の7月に、キャリーケース1つとギター2本を持って東京に来て、1年間は友達の家を転々として暮らしていました。上手い奴がいっぱいいるんじゃないか、面白い奴がいっぱいいるはずやって気持ちで東京に来たんですけど、実際うまい奴がたくさんいるし、みんな変(笑)。人と人って理解し合うのが難しいなとか、逆に深く理解し合えてるなとか、いろいろ感じることがあります。

—Future— 
仲間と共に挑む新しいステージ、子どものように純粋な未来へ

─ 2025年9月27日はKABUKICHO TOWERステージで開催された「TOKYO PLAYGROUND#2」に出演されました。初めての野外ライブだったそうですがいかがでしたか?

今のバンドメンバーで2回目のライブだったのですが、天気にも恵まれてめっちゃ清々しかったです。ストリートでの闘いって感じがしてワクワクしました。「歩いてる人止めたんで!」みたいな気持ちでしたね。東京でも路上ライブで稼いでいて、会場のすぐ近くでもよく弾き語りをやってるんですよ。歌舞伎町ってうるさくて楽しい街だなって思っていて。和歌山の環境とは正反対だから、そのギャップにやられていた時期は正直ありました。ようやく最近慣れてきましたね。

─ バンドメンバーはどうやって集めたんですか?

コーラスのカマルは同居人で弟みたいな存在です。めりは僕がInstagramでコーラスを募集したらやりたいって言ってくれた子。ギターのタナカリョウスケはインターネットで知り合って、バンマスでベースの佐藤利基とドラムのクリタシュウは、上京したてのときに行っていたセッションバーでナンパしました。みんなジャズができる人たちなのですが、僕はジャズはまだまだなので、具体的で正しい言葉を持っていなかったり、共通認識がなかったりして、抽象的に喋っちゃうんですよね。それを利基が「在音は16分裏のアクセントの話をしてると思う」みたいな感じで、みんなに通訳してくれています。

─ 一人で弾き語りをするのと、バンドメンバーを集めて活動するのって、それぞれに違った苦楽があるんじゃないかなと思うのですがいかがですか?

一人だったら自分の楽しいことだけでいいけど、バンドは人と人との関わりだから、好みも違うし、「俺の曲を本当に好きなんかな?」って思うこともあるし…でもそこを考えても無駄だと思うんですよね。一人でもバンドでも、自分次第やなって思ってます。自分が引っ張っていかないといけないし、僕のことを信じ込ませないといけない。上京してきて、人の評価を気にするようになってブレてしまった時期もあったのですが、今は「やったんで! みんなついてきてくれ!」って気持ちです。「音を楽しむで音楽だ!」というか、ただここに在るだけ、楽しいだけ、という純粋な気持を強く持っていることは、僕の強みだと思います。

─ ミュージシャンを志してから現在に至るまでに苦労したことやターニングポイントは?

苦労はまさに今です。これまでは自分の世界のなかだけで完結できたけれど、もうそれだけじゃなくなってきて。自分の気持ちと、世界、社会や礼儀、相手の気持ち…それらを擦り合わせているところです。まだまだわからないことだらけですけど、わからないと気づくことが増えたので苦労しています。でもこの苦労はまだ若いからやろうなって思ってて。だから今が踏ん張り時です。

─ 今、特に踏ん張らなきゃいけないと感じていることはなんですか?

何も考えずにただ楽しいっていうのは、僕は違うと思っていて。いろんなものを含めて、ただ在るということ、ただ生きていくこと、ただ音楽することを全力でやりたいんです。だから、世の中の理不尽に負けずにやっていきたい。その「負けん気」を持つことが今いちばん踏ん張ることかなと思っています。

─ その踏ん張りを経て、将来はどんな大人になりたいですか?

子どもみたいな大人になりたいです。人って存在してるだけでいいし、そこに在ることが美しい。それを純粋に体現しているのが子どもだと思うんですよね。知っていることは少ないけれどそれゆえに無駄なものがなくて、僕にはその姿がすごく魅力的に見えるんです。とは言え、やっぱり僕も大人になってきて、知識もついたし、世間の声も社会も知ったし、きっと今から知っていくこともたくさんある。今はいろんな知識をつけるときだとは思いますが、ゆくゆくはそういったものをそぎ落として子どものように生きていきたいです。

─ 将来はどんなステージに立ちたいですか?

やっぱり楽しいステージですね。人がいればいるだけ楽しいだろうし、みんなが僕の曲を歌ってくれたらいいなって思います。やっぱり赤レンジャーになりたいんですよね(笑)。楽しくて、みんなに好かれて、みんなのことが大好きで、音楽のことが大好きで…そんなふうにもっと大きくなっていきたい。ライブは、僕が熱くなっているときはお客さんも熱くなっているし、お互いのエネルギーがぶつかり合って噴出したときの掛け算が楽しみなんですよ。何万人も集めてエネルギーのぶつかり合いで噴火させたい。そんなステージに立ちたいです。

幼少期から音に魅せられ、挑戦を重ねてきた松澤在音。人との出会いを力に変え、純粋に音を楽しむ姿は、そのまま彼自身の生き方でもある。子どものような無垢さと大人の覚悟を抱きながら、彼の音楽はこれからも多くの人の心を震わせ続けるに違いない。

文:飯嶋藍子

写真:谷川慶典

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